• (ダライ・ラマ法王)先ほど、曹洞宗の阿部老師様からこの絡子(ラクス)というそうですけれども、四角いものを頂戴いたしましたので、このように着けさせていただいております。

  • ちょっと首がこすれる感じがいたしますけれども。もし首がかゆかったら、ちょうどいいかもしれません。

  • 本日は「曹洞宗岐阜県青年会創立40周年記念」というこの大会に、私をご招待いただいたわけです。

  • そして、きょうは仏陀がお生まれになられた、本当に縁起のよい日であります。私たちは、皆様方も私も同じですけれども、仏陀の一人の弟子として全く同じ立場にあるわけでして、同じ立場に立ちながら、仏陀に対する深いご恩を思い起こすという日にあたっているわけです。

  • そこで私たちはいま、この21世紀の時を生きているわけです。

  • 仏陀がお生まれになり、法を説かれてから、約2600年の年月がたっているわけですが、現在においても、世界におきまして、たくさんの仏教国というものが存在しています。そして、皆様方の国である日本もその一つである仏教国となっておられるわけです。

  • そこで仏陀がお説きになられました、仏陀、仏法、僧伽といわれる、3つの宝と書きますが、三宝に対する帰依をする人たちが仏教徒であるといわれるわけであり、現在も、そのような仏教徒の国も、そして仏教徒の方々も存在し続けているわけです。

  • しかしながら、仏教に関係のない宗教に信心をしておられる国の方々であっても、最近の時代におきましては、この仏教の提供する哲学的なものの考え方、そして心の科学の分野におきまして、非常に多くの方々から関心を寄せていただいております。

  • そして、ある学者の何人かの方々、そして科学者の方々は、「仏教というものは宗教ではない。心の科学である」と言う方々もおられます。

  • そこで、この世界にはたくさんの宗教が存在しておりますけれども、それを大きく分けますならば、神という、この世の創造主の存在を受け入れている宗教のグループが一つ。。

  • そして、そのような神の存在を受け入れていない、無神教の宗教が一つ。このように、大きく分けて2つのグループに分類されます。

  • そのような宗教は、非常に多くの数が、この世界にありますけれども、このすべての主だった宗教が、この地球上に生きているすべての人類に、大いなる貢献をしています。

  • 過去約1000年の昔にさかのぼってみますならば、それぞれの宗教が、それこそ何十万、何百万の人々に対して、本当に大きな役に立つ、心の苦しみを救う、という意味におきまして、偉大なる貢献をしてきました。

  • そして現在もまた、そして、これからの未来におきましても、たくさんの人々を救い、そして助けていく、という意味におきまして、非常に大きな役割を果たしているわけです。

  • そして私たち仏教徒の教え、というものも、この他の宗教との共通の部分の教えである、愛や慈悲の心を育むということ、そして忍耐を修行するということ、そして知足(ちそく)といいますが、自分が持つもので足るを知る、ということですが、そのような教えを、共通したメッセージとして発信しています。

  • そこで、仏教と仏教以外の宗教の違いは何かといいますと、仏教におきましては、この世の創造主としての神の存在を受け入れていませんが、その代わりに、因果の法に基づく、縁起の見解、というものを説いています。

  • この見解におきましては、これが非常に仏教特有のユニークな部分となり、他の宗教との一線を画するところとなっています。

  • そこで、このように、世界の中にはたくさんの宗教が存在しているわけですが、その中の一つの宗教を取り上げて、この宗教が最高の宗教である、と言うことはできません。

  • もちろん、私自身も仏教徒ですし、そのような存在であるわけですが、仏教が最高の宗教である、ということはできないわけなんです。それはなぜか、といいますと、こちらの宗教が優れている、あるいは劣っている、というようなことを、一般的に述べることはできないからなんです。

  • つまり、一人一人の人が、それぞれに異なった、さまざまな気質を持っており、さまざまに異なった関心を持っている、という理由から、それぞれの人に一番合った宗教というものが、異なってくるからであるわけです。

  • つまり、その人にとって一番役に立つ宗教というものが、その人、個人にとって、最高の宗教であるということができるわけであり、一般的に、この宗教が最高である、というようなことは言えません。

  • ですから、その個人にとって最も役に立つ宗教、そして、最もその人が能力を発揮する宗教というものが、各個人にとっての最高の宗教となるわけです。

  • そして、私が住んでいるインドの国は、非常に暑い国でもあるわけなんです。そのようなときに、ぬれタオルで顔を拭いたり、頭を拭いたりすると、とても心地よいわけであり、そして今回、この会場のステージの上でも、照明が非常にまぶしくて、多少暑いので、このようにタオルをかぶらせていただきます、という許可を皆さんにいただきたいと思います。

  • ですから、この会場にいらしておられる、比丘(びく)の方々、僧侶の方々、そして、小さい幼稚園児の方々も、日本でありますので、非常にお行儀がよく、ちゃんとルールを守って、お行儀よく座っていらっしゃるわけなんですけれども、私自身は、このような、ちょっと冗談っぽく、このような格好をさせていただきたいと思っております。

  • しかし、これは非常にプラクティカルというか、実用的です。

  • この世の中には、さまざまな気質や関心の違いが存在し、そのようなさまざまなタイプの人々がおられる、ということから、さまざまに違った宗教が、この世には存在しているわけであり、たとえ仏教の中におきましても、仏陀の教えに従う弟子たちの中には、さまざまなタイプの人たちがおられた、ということから、一人の仏陀といわれる師匠から、さまざまに違ったように見える教えが説かれているわけです。

  • もちろん仏教の中におきましては、共通の教えとして、一般的には、無我の教え、というものが説かれているわけですが、ある種の弟子たちに対しては、自我、あるいは私(わたくし)というものは確かに存在する、というような教えも仏陀は説かれているわけなんです。

  • 例えば、私たちの心と体の構成要素の集まりである、五蘊(ごうん)というもの、これが人が担ぐ荷物であり、その五蘊(ごうん)という荷物を担ぐ人が、人間、つまり自我であると、このように、自我があたかも独立したものとして、五蘊(ごうん)とは別個に存在しているかのような教えも、仏陀は説かれています。

  • 宗教的な実践、あるいは修行の面からいいますならば、この世界の中で存在しております、主だった修行というものは、愛と慈悲の心を育むこと、持つもので満足すること、そして、自己規制というふうに、自分を慎みつつ、きちんとした正しい生活をする、ということを、共通の修行として説かれています。

  • しかしながら、哲学的な見解の面から見ますと、それぞれに大きな違いが存在しています。

  • この仏教の教えの土台となっているのがパーリ語の経典、すなわち、上座部の教えというふうになっています。

  • その上座部の教えの中では、四聖諦(ししょうたい)と呼ばれますが、4つの聖なる真理の教えが説かれています。

  • そして、そのそれぞれの4つの真理について、各4つずつの特徴が述べられており、そういった教えとともに、三十七道品(さんじゅうしちどうほん)といわれるような、悟りに至る三十七の修行の道、これが基本的な共通する部分の教えとして説かれています。

  • そして、さらにそれに加えまして、般若経の教え、というものがあります。これは私たちが常に唱えています、般若心経に短くまとめられているわけですが、この般若経の経典というものは、例えば、金剛般若経とか、あるいは、内容の多いか少ないか、によって、さまざまなたくさんの種類の般若経典というものが存在しています。

  • そして、この般若経の教えといいますのは、私たち個人個人の修行者が、自分自身の知性を用いて、きちんと論理的な、ものの考え方に基づいて分析し、それが正しいと思えたならば、その確信に基づいて、信心をするべきであるということを、仏陀ご自身が述べられているわけです。

  • つまり、仏陀のお言葉の中には、「比丘(びく)たちよ、私の教えを、ただ信心から受け入れてはならない。あたかも、錬金師が純金であるかどうかを調べるために、金を焼いて、切ってこすって調べるがごとく、私の教えを調べて、それが正しいと思ったら、それに従いなさい。そうでなければ、たとえ私の教えであっても、従ってはならない」と、このように、はっきり述べられているわけです。

  • この般若経の教えですけれども、般若波羅蜜、という言葉があります。

  • これは、完成された智慧、という意味がありますが、そのお言葉どおり、私たちが仏教に対する信心をしていくときも、私たちの信心の心というものは、智慧というものに支えられたものでなければなりません。

  • つまり、仏教の実践というのは、土台の段階、そして修行道の段階、そして結果における悟りを得た段階、という、3つに分けられますが、土台の段階におきましては、この智慧というものを学び、確立していきます。

  • そして次に、修行道の段階におきましては、確立した、その知恵に瞑想していくわけです。そして、瞑想を通して自分の心の中に、その育んだ知恵をなじませていく、という段階に入ります。そして、その結果として、実現するべき境地というものが、完全なる仏陀の境地、すなわち、一切智(いっさいち)の境地であると、このようにいわれているわけです。

  • つまり、私たちは、この完成された智慧、というものを、自分自身の心の中に育んでいくべく、私たちは今の修行者の段階から、自分なりに得た智慧というものを、自分の心の中になじませていかなければなりません。そして、最終的に、私たち自身が、その一切智(いっさいち)の境地に至ることができるということになります。

  • そこで、私たち仏教徒のするべき信心、というものは、単に仏陀がおっしゃったからといって、それを鵜呑みにして信心するということをしてはならないわけなんです。

  • そのようになってしまいますと、自分の知性を用いて、教えを分析するということができなくなってしまいます。そうではなく、たとえ仏陀の説かれた教えであったとしても、私たちはそれが正しいのかどうか、ということを、自分自身で調べ、分析するということから始めなければなりません。

  • 例えば、昔、仏教が隆盛を極めた、ナーランダー僧院があります(けれども、その)ナーランダー僧院で学び、実践をされた、ナーガールジュナをはじめとする、たくさんの偉大な導師たちが、ナーランダー大学にはおられました(が、)そのナーガールジュナをはじめとする、すべての導師の方々が、たとえ仏陀がお説きになった教えであっても、ご自分自身が分析をされ、調べ、そして正しいと思ったならば、それを受け入れ、実践していくという道を歩んでこられたわけなんです。

  • ですから、たとえ仏陀の説かれた教えであっても、そのお言葉を、お言葉どおりに受け入れてよいかどうか、ということを、自分自身で調べていかなければなりません。

  • そして、調べた結果、それが論理的なものの考え方に、一切矛盾がなければ、それを受け入れて信心をするべきであるわけです。しかしながら、何らかの矛盾が生じてきた場合には、たとえ仏陀の教えであっても、それを受け入れてはならない、とされています。

  • 過去30年にわたりまして、私は、近代科学に携わっておられる科学者たちと、ほぼ毎年、お互いの、対話をする、そして議論をする、意見の交換をする、という場を続けてまいりました。非常に密接な、親密な関係に基づいて、お互いにとって非常に役に立ってきました。

  • そして、そこの場で、この話し合いとなっている主題というものには、コスモロジー。そしてニューバイオロジー。そして物理学。物理学の中には、量子力学が入ってきますけれども、それが第3番目。そして第4番目が、心理学ということになります。

  • この4つの分野におきまして、近代科学に携わる科学者たちと、そして私たち仏教者たちが、お互いに情報を交換する、ということにおいて、私たち仏教者の立場から申し上げますならば、近代科学の科学者たちが発見されている最新のデータを伺い、それによって私たちも大いに知識を広めることができています。そして一方では、最近の科学者の方々も、私たち仏教徒が提供することのできる、非常に広い、詳しい教えが述べられている仏教のテキストに基づく、心の科学の部門、こういったものに非常に多くの関心を寄せていただいています。

  • そして、中観の見解で述べられている、この世の中に存在しているすべての現象というものは、それ自体の側からの、事象による成立というものは一切ない。すなわち、空の本質を持つものである、という仏教的な概念が、量子力学の分野で、物質的なものに関する実験をされている、リサーチをされている方々の見識と、非常に似通ったものを持っています。

  • そして、この科学的な方法論、すなわち、すべてのものを自分自身の知性を用いて調べ、分析してみる、という方法論をとっているのは、これはナーランダー僧院に伝わってきた、原始仏教に源をさかのぼることのできる、仏教的な伝統であるわけなんです。

  • そこで重要視されてきましたのが、ナーランダー僧院において、論理学といわれる分野、すなわち、論理に基づいて、すべてのものを調べていく、という態度であるわけなんです。そして、論理学の分野でも、このナーランダー大学の中で、非常にたくさんの優れた導師の方々が出現しています。

  • それはディグナーガ(陣那)であり、ダルマキールティ(法称)であり、シャンタラクシタ(寂護)といわれるような方々が、本当に優れた著作を残されておられます。そういったものを学びつつ、私たちも、論理学というものを学ぶということによって、科学者的な、すべてのものを調べて、正しいと思ったことに従う、という態度を養っていくことができるわけです。

  • そこで、この仏陀がお説きになられました、四聖諦(ししょうたい)の教え、4つの聖なる真理ですけれども、この苦しみが存在するというような中にも、すべてのものは苦しみである、そして無我である、そして空である、というような、一つ一つの真理に基づく、4つずつの特徴が述べられているわけです。

  • そして、そのようなことが、例えば、パーリ語の経典、すなわち、この上座部の経典の中では、仏陀が、この特徴はこれこれこういうものがある、というふうにしか述べられてはいません。

  • つまり、そこでは、一切の論理的なものの考え方に基づいて調べてみる、という態度はうかがうことができないわけなんです。

  • しかしながら、サンスクリット語の経典としてまとめられている、大乗仏教の教えの中には、例えば、そういった4つの聖なる真理の持っている、一つ一つの特徴について、論理的な、ものの考え方に基づいて、いかに分析するべきか、ということが詳しく述べられています。

  • そのような教えは、例えば、ダルマキールティ(法称)が書かれました「プラマーナ・ヴァールティカ」、「量評釈」といわれるテキストがありますけれども、その中で、本当に優れた論理的な、ものの考え方によって、ゆえに、これが苦しみの本質を持つものであるというように、理由付けに基づいて、教えが確立されています。

  • そこで、私たち仏教の実践というものをどのように行っていくかというお話を少ししたいと思います。

  • 仏教の教えというものは、第一の段階で教えをたくさん聞くということをします。

  • そして、次に聞いた教えについて考えるということをします。そして第3の段階で瞑想でそれを心になじますということを行っていくわけです。

  • この3つのことを「聞思修(もんししゅ)」といいます。この第1の段階、「聞(もん)」はたくさん聞くということ。これは師匠から仏教の教えをたくさん聞くということ、あるいは自分で仏教の経典、あるいは論書というものを読んで、勉強するという段階にあたります。

  • この段階において、教えを聞くということによって、得られる智慧というものが育まれてきます。しかしながら、この段階では、恐らくそうに違いないというような、どちらかというと、まだ信心、理解というものが不安定な段階のものとなってきます。

  • しかしながら、それを次の段階で聞いた教えについて、自分の知性を用いて分析して何度も何度も、考えてみるという段階に移るわけです。そのようにしてみますと私たちは自分自身で聞いたものの教えが本当にそれが正しいのだというふうに確信を持って、信心をすることのできる段階に、入っていくわけです。

  • これは、論理的なものの考え方に基づいて自分自身が調べ、そして分析した結果、生じる智慧が、この第2の段階で育まれてくることになります。そして、その確信を持って得た智慧、それを、瞑想によって、自分の心の中になじませていくというのが、最後の段階であり、これが瞑想修行ということになります。

  • そのようにして、最終的に自分の心の中に、自分が確信し、そして、確かめた教えの意味というものが自分の心の中に根づいていくわけであり、最終的に瞑想を通して得られる智慧というのが育まれてくるわけであります。

  • そして、このようにこの聞思修という3つの段階を通して私たちは実践修行をしていかなければなりません。

  • それの土台となりますのが三学と言われる実践修行となってきます。

  • その一つ、一番、最初が戒律の実践となります。この戒律の実践は在家の方であるならば、在家信者会を受けて、その戒律を守るということ。そして、出家の方であるならば、出家の戒律を授かって、その戒律を守っていくということです。

  • そして、そのようにして清らかな生活をし、自分自身の生活を律していくということによってますます、私たちは注意深さと警戒心と言われる力を高めていくわけです。

  • これは仏教のことばで憶念(おくねん)と、正知(しょうち)という言葉で呼ばれます。つまり、自分が正しいことをしているかを注意深く見守りながら、それから、少しでもそれそうになったら、それをいち早く見つける力というのが警戒心となります。

  • そのような2つの力に支えられながら、自分の心を一点に集中してとどめることができる力すなわち、この禅定の力というのを高めていくのが第2の段階、禅定の修行となります。

  • さらに、第3番目の修行というものが、この「観」の力。鋭い洞察力を高めていくという段階に入るわけです。

  • そして、この「観」の力というものには世間的なレベルにおける、「観」の修行。そして世間を越えた超世間における「観」の修行という2つのものがあります。世間的なものというのはあらゆるレベルの様相を備えた修行の道と呼ばれますが、この超世間の修行と言う部分においては、私たちは無我の教えというものに関する洞察力を深めていくという段階に入っていくわけです。

  • そのようにして私たちは少しずつこの禅定の力、そして智慧の力というものを戒律の修行を守るということを土台に高めていくことができます。

  • 般若心経の中では、いちばん最後に「ガテー・ガテー・パーラガテー・パーラサンガテー・ボーディスヴァーハー(掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提薩婆訶)」と言われる、5つの部分に分けられた真言が出て来ます。この真言は悟りに至るための5つの道に一つずつ見合っているわけです。ですから、いちばん最初の「ガテー」というのは5つの道の最初の道、「資糧道(しりょうどう)」。

  • つまりに第2番目の道に行くための「糧の道に入りなさい」という意味が最初の「ガテー」です。第2番目の「ガテー」が第2の道である、「加行道(けぎょうどう)」。これは第3の道「見道(けんどう)」に入るための準備をする道です。

  • そして「ガテー・ガテー・パーラガテー」。この「パーラガテー」というのが「見道(けんどう)」。つまり直感によって空を見抜いたときにこの道に入るわけですが、「そこに至れ」というのが「パーラガテー」です。第4の道が「パーラサンガテー」といわれてますが、直感をもって見抜いた空を理解する智慧というものをますます瞑想を通して、自分の心になじませていく段階にあたります。

  • そして最終的に「ボーディースヴァーハー」。「悟りを成就せよ」というふうに言われて、最終的に「無学道」。これ以上学ぶべきことが残っていない道に至るということがいわれています。

  • そこで一番初めにお話しましたとおり、世界の中にはたくさんの宗教がありますが、決して、この仏教が最も優れた宗教だと申し上げているわけではないのです。

  • 私は外国を訪問させていただいているときには、両親から、そして祖先から伝わってきた宗教を維持するということがその人にとって、一番よい方法であるというふうにふだん、お話をしているわけです。

  • 私たちは元から、仏教国に生まれ、そして祖先から引き継いできた宝としてのこの仏教というものを引き継ぐ立場にあるわけです。ですから、そのような意味におきまして、非常に恵まれた立場にあるわけで本当に、功徳ある、よき立場に置かれているということを新たに認識していただきたいと考えています。以上で私からのお話は終わりです。いまからは会場のほうから質問を出していただいて質疑応答のセッションに入りたいと思います。

  • (質問者・幼児)なんで合掌をするんですか?

  • 合掌するということは尊敬の意を表しているわけであり、実際には手でもしますけど、心の中で敬意を持つことが一番、大切です。この合掌する場合ですけども、手のひらを、ぴたっとくっつけて親指も全部、くっつけてしまうやり方と、そうではなく真ん中を膨らますようにして親指を中に、おり込むというやりかたの、この2つがあります。

  • 親指を2つ、折り曲げた形、真ん中におり込むわけですね。そして、私たち仏教徒は、この中空の感じですけども、真ん中に空っぽの空間ができます。そして、この親指を入れているわけですが、このように膨らませた形というのは宝珠に似ているわけです。

  • 宝珠というものは、私たちが将来的に仏陀となったときに、色身(しきしん)。すなわち仏陀の形あるおからだを成就することができることを象徴しています。

  • 真ん中に空っぽの空間ができますけども、この空っぽの空間が、仏陀の持っておられる発心(ほっしん)。真理のお体を成就するためのことを象徴しているわけです。この幼い方々は、この親指の先に甘いものを何か塗っておいて、なめながら、おいしいなと思って合掌するといいのではないでしょうか。

  • (質問者・小学生)次、生まれ変わるならどんな人になりたいですか?

  • 私自身には、いつも唱えている、祈願文があります。「この虚空が存在する限り、有情(うじょう)が存在する限り、私も存在し続けて、有情の苦しみを取り除くことができますように」と。

  • これが、いつも常に私が唱えていることばです。もしかしたら将来的には、あなたの子どもとして、私も生まれるかもしれません。

  • (質問者・成人男性)山根と申します。私はブータンに住んでいました。日本とブータンの幸せの形は少し違うなと感じました。そして、法王様の考える幸せとは、どういったものでしょうか?よろしくお願いします。

  • 幸せというのは、根本的には心の幸せを意味するわけです。つまり、この幸せというのは一種の私たちの感覚であり、その感覚として、心の中から出てくる幸福感というものでなければなりません。

  • つまり幸せというのは、一つの意識であるわけです。しかし、その意識には2つの種類があります。つまり、五感を通した感覚的な意識というものと、純粋な意識作用。精神的なレベルの意識というものが存在します。

  • そして、この純粋な精神的な意識の中の幸せの感覚というものは、ごく自然にわきあがってくるタイプのものと、自分が心を訓練し、何らかのものに慣らすことで生じてくる意識というものがあります。

  • そこで、この仏教のテキストの中にはこのような私たちの持っている心、あるいは意識についての定義、あるいは意識にはどのような種類があるかといった、非常に詳しい解説がされているわけなんです。

  • それはなぜかというと私たちが自分自身の心を訓練するということによって、最終的に私たちは精神的なレベルにおける永続する幸せの感覚を達成するための修行をしていかなければならないわけであるからなんです。

  • つまり、そのようなものは私たちの心で感じるもの、体験を通して味わうことができるものとなっています。

  • そこで先ほどお話しました三学の修行というものがございますけども、最終的にはこの最も優れた鋭い洞察力と説明されましたけども、それも精神的なレベルにおける意識と深い関連性を持っています。つまり、この精神的なレベルにおける意識を自分が思うように訓練するということによって、自分自身の幸せを得るための力をフルに発揮させ活用することができるようになるからです。

  • しかし、そのような智慧を育んでいくための土台となるのが、心を一点に集中することができるという禅定(ぜんじょう)の力であり、さらに、その土台が戒律を守って、自己規正を守って清らかな生活をすることに源があります。

  • (質問者・成人女性)子育てにおいて一番、大切なことはなんでしょうか?

  • 私には分かりません。お母さんである、あなたのほうが、ずっと、よく分かっているのではないでしょうか。しかしながら、子育てにおいて、最も大切なのは、本当にお母さんが心からの愛情を子どもに注ぐということです。

  • (質問者・成人男性)私は葬儀の仕事をしております。亡くなられた方のために私たちができることはなんでしょうか?

  • 私たち仏教徒は、この神の存在というのを受け入れていませんので、自分自身の行く先というのは自分自身の手の中にあるわけです。

  • 自分の成した行いの結果というものが、自分の死後の世界を決めていくというか、すべて、自分が自分の主人であると、仏陀もおっしゃっているわけですが、一番よい方法というのは、まだ亡くなる前に、ご自身がよい行いをする。

  • 例えば、利他行をする、他の人たちを助けるというような、よい行いをしていけばもちろん、死後にもその亡くなった方もよい世界に移っていくことができるわけなんです。しかし、そうでない場合、もう亡くなった場合に周りの人ができることというならば例えば、家族、非常に身近な存在な人たちが経済的な面などから、そういった経済的な何かをお布施するとかという方法によって、亡くなった方のために、何かよきことをもたらすこともできます。

  • あるいは、例えば、この亡くなった方がご両親。お父さん、お母さんであったならば、そのお子さん方が、よき行いをし、徳をつむことによって、その徳を亡くなった方のよきことのためにささげるということをしていただければいいと思います。

  • 亡くなった方が例えば、ラマ、師匠であるならばその弟子である方々が、本当に心よりの祈願をささげるということが役に立ってくるわけです。ですから、仏教の中では自分たちが成した行いというものの結果が、因果応報によって結果がもたらされるということであります。

  • すでになしてしまった行いというものを今から修復することはできないわけなんです。つまり、自分の成した行いの結果というものを、各自が運んでいかなければならない。自分の身に戻ってくるということになるわけであり、そのように考えていただければよいのではないでしょうか。

  • そして、誰かが亡くなったときになすべき儀式的な部分であるならば、それぞれの宗派や伝統に従って、どのような形で儀式を行われても、なんの問題もないと思います。

  • (質問者・成人女性)法王様が、仏教の教えの中で一番、大切になさってることは、なんでしょうか?

  • 仏教の教えの中で最も大切な部分というのは利他の思いを究極に高めた心である「菩提心(ぼだいしん)」を育むということと、そして、空の理解を育むという、この2つです。

  • 般若経で説かれている教えというのは空の教えであり、空を理解することが最も大切です。そして、この仏教の経典の中では、この般若経の中で主だった教えとして空が説かれており、方便のほう、修行の側からいいますならばこの利他の思いを究極に高めた心の、「菩提心」を育むことだといわれています。

  • そこで、空の理解、そして「菩提心」を瞑想し、そして、自分の心の中にできる限り、育み、培っていくことで得られるのが他の人たちの目的を果たすための「色身(しきしん)」、つまり形あるお体そして、自分の目的を達したときに得られる「発心(ほっしん)」。

  • 真理のお体、仏陀の持っておられる2つのお体が成就されることができます。

  • そこで、仏教の教えというものはこの空の教えというものが智慧の教え、そして菩提心を育む教えが、方便の教えになります。

  • この2つの教えを理解するためには世俗の真理と究極の真理という、この、「二諦(にたい)」と呼ばれますが、二つの真理を理解することが必要であり、ナーガールジュナをはじめとする偉大な導師たちがこの2つの真理について詳しい解説をされています。

  • そこで、ナーガールジュナが「宝行王正論」の中で述べられていることを今、お唱えになられました。

  • 私たちが悟りの境地を得たいというふうに考えるならば、それに欠かすことができないのが慈悲の心であり、そして、空の教えであり、これらの大切な要素を自分の心の中に培っていかなければならないと思います。

  • そして、それを実際に修行に移す段階に入りますと、やはり、ナーガルジュナがお書きになられました「中論」の教えがあります。この「中論」の教えの中で過去の仏陀たちは2つの真理をお説きになられた。この世俗のレベルにおける真理と究極のレベルにおける真理を知って、初めて私たちは究極の仏陀の境地に至ることができると述べられています。

  • 私たちが仏教徒の一人として、よりよき修行者となるには、つまりナーランダー僧院に伝わってきた伝統ある原始仏教の教え、それをきちんと修行することができるようになるためには、自分はまだ学生なのであると。まだまだ勉強をしていかなければならないという気持ちを新たにしていただければなりません。私はもうすぐ、80歳を迎えようとしています。しかしながら、私は日夜、勉強を続けているわけで自分が学生であるという認識を常に維持しております。

  • (質問者・僧侶)お尋ねいたします。私たちが、日常生活の中で、きょうからできることはなんでしょうか?

  • 先ほど、お話したとおり、「聞思修」。たくさん教えを聞き、それについて考え、それについて瞑想するということです。